国会議員が101人参拝……

101人のうち、何人が議員になる前から靖国に参拝しているんでしょうね。
もししていなかったのなら、票目的の行為と言われても仕方ないでしょう。
国会議員が集団で特定の宗教法人に参拝し、マスコミに「アピール」する。
これって政教一致そのものだと思いますが、違うんでしょうか。
だって国家権力を持った人が、特定の宗教法人を宣伝してるわけですから。
しかし彼らは、必ず「集団」なんですよね。
本当に信念のために行くなら、一人で行けばいい。
それをわざわざ会を作って行くとなれば、やはり広く「アピール」したいからでしょう。
しかし、一番悪いのは、それをよしとしている国民だと思います。
議員は票になるからそういう行為をするわけです。
票が減るなら絶対にそんなことはしません。
議員とはそういう生き物です。
僕は、憲法を軽視し、集団で靖国に参拝するような議員には、絶対に票を入れません。
また、そういう人が増えてくれることを信じています。
こうしてブログで書くのも、そのためです。

「国会議員が101人参拝……」への6件のフィードバック

  1.  日本の国益に反するからNo! と言う人もいますし、偉大なる天皇様が不快感を示しているからNo! と言う人もいますが、どちらの意見も、この国の精神の根底に横たわる、かつて日本を国際的犯罪に駆り立てた、最も核心的な部分に触れていない様に思います。
     たとえA級戦犯が分祀されようとも、たとえ天皇が参拝しようとも、かつて国民を戦争へ駆り立てた装置である靖国の精神(遊就館に代表される民族主義的思想)を認めるのならば、それは日本国家という犯罪者を匿う事を意味しますし、同時に日本が戦争の反省をしていない事を意味します。
     確かに、「極東国際軍事裁判の判決は不公正だ」とする判断が部分的に正しい可能性はあります。一部の過ちを指摘する事により、意見の全てを過ちと考えさせるのは、議論の場でしばしば用いられる手法です。この場合も、「よってA級戦犯は冤罪」と判断する理由は全くありません。戦争責任の全てをA級戦犯に集中させたことにより、その他の責任が不問にされた事、それにより、日本の内部から湧き上がる衝動としては未だに反省していない事。これこそが真の問題だと思います。
     政教分離に関しては、自民党の提示している憲法20条の改正(悪)案から眼が離せません。国粋主義的な同党の目指している究極的な靖国のあり方としては、やはり天皇が参拝する事ですから。麻生太郎などは堂々と「靖国神社を国家管理すべき」などと発現していますが、ここには国家神道に対する反省が完全に欠落しています。
     私はハッキリ言って、今の日本は汚い国だと思うし、未だに天皇依存体質から抜け出せない国の人間である事が恥ずかしいのですが、自分の過ちを認めない靖国フェチの人々は、どうやら私のこういう考えすら嫌うようです。ネット上での議論でも、参拝肯定派は自分達の意見が完全に論破されても、決して過ちを認めない。最近、そんなナルシシズムに浸っている体育会系な方を多く見かけます。
     ただ、議論を試みる意思があること自体は評価できます。いちばん厄介なのは、問題点として取り上げる事すらしない、そのクセに日本の精神風土は無意識に受け継いでいる、そんなタイプのほとんどの日本人です。

  2.  自分の意見に対する反論みたいで気持ち悪いんですが、哲学を趣味にしているとこんな考えも浮かんでしまうのが厄介です。
     世の中の善悪や倫理に根本的な理由は無く、結局は多数派によって決定されるものでしょうから、そういう方向に世の中が向かうのであれば、それが自然なのかもしれない。論理的に多分に矛盾があろうとも、または、それまでの道徳観と相容れなくとも、その事に気付かず、あるいは無視して進んで行けるのなら、日本の、否、世界の流れとしては自然なのかもしれない。数少ない反対意見が淘汰される運命であれば、それもまた世界の流れの一部とも言える……。
     もっとも、プラスかマイナスかという点では明らかにマイナス(と私は思います)な考えなので、世間に向かって発言する理由など無いのですが、こういう考えによる葛藤は、たいへん疲れます。もちろん、投票で意思表示はしますがね。

  3. 今の日本の議員も、政党も、国民が選んだんですよね。
    そこが大きなポイントですよね。
    あの、ナチスドイツだって、国民が選んだ民主主義の政党ですからね・・・
    なんだか、そう思うと、今の政治も、国民が選んだ政治って事か・・・なんということだ・・・

  4.  太平洋戦争から、たいして経っていないのにこんな空気になってしまうような国民性である以上、近い将来、残念ながらもう一度戦争を経験する事になるのは避けられないと感じています。
     次こそ最後にできるように、今度こそ、国民一人ひとりが反省する必要があると思います。
     「国家や戦争犯罪者に踊らされた、裏切られた、騙されていた」などという言い訳を、今度こそ認めるわけにはいきません。本当は国民一人ひとりが「騙されたかった、考えようとしなかった」のではなかったか。「おかしい」と主張する人は存在していたのに、流れを止めることをしなかったのではなかったか。
     映画監督 伊丹十三(池内岳彦氏)の父で、同じく映画監督であった伊丹万作(池内義豊氏)は、終戦後、そんな様な事を言っていたそうですよ。

  5. 青さんの指摘は本当にそのとおりと思います。
    ご老体にインタビューする番組を見ていても、「戦争は嫌だ、地獄だ」という台詞はよく放送されますが、「我々国民があの流れを止めなければならなかった。本来はこうあるべきだ」といった発言はなかなか放送されません。
    当のマスコミ自体の責任について放送されることも少ないように思います。
    「戦争は嫌だったが、あれは仕方がなかった」では、次の戦争を防げません。
    まぁ、テロの蔓延によって「戦争」の定義が今世紀はかなり変わってきそうなのですが……。
    少なくとも、国家間の戦争についてはそのように思います。
    「平和平和」と言っているだけの平和念仏教では、戦争を防げない。
    観念ではだめなんですよね。
    ですから、こんなささやかなサイトでも、機に応じて少しでも世の中に発信しようとしているわけです。

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