サンデル教授の東京大学の講義

 今日、サンデル教授の東京大学での講義をNHKでみました。
すばらしい講義でしたが、思ったのは、日本人はやはり議論の訓練が十分でないということ。
 英語がネイティブ並みに話せても、議論の本質を捉えて、ロジカルに考えて自分なりに原理原則を見つけ出し、それを明快に主張するという訓練がまるで足りないように思います。
(それは、出席者も感じていたようでした。
もちろん、僕もその場にいたらうまく明快で一貫した主張ができたかどうかはわかりません。
というか、緊張してそんな余裕はなかったと思います。)
サンデル教授のアメリカでの講義を見ているときには感じなかった歯がゆさが、今回の放送にはありました。
サンデル教授も、どうやって議論を進めればいいのか、とても苦労されているように見えました。
 今回の参加者を見ていても思ったことですが、日本人はどうしても議論がけんか腰になりますね。
しかし、議論、または対話というものは本来、お互いに切磋琢磨して、より真理に近づこうとするものと思います。
 そういえば学会のシンポジウムなどで偉い先生同士が議論になったりすると、エライけんか腰でビックリすることがあります。
なんか大人げないなぁって。
僕も気をつけます。
まずは夫婦で議論(けんか?)するとき。(笑)
p.s.
 今回の放送は戦争責任の話でした。
参加者が、「豊臣秀吉の侵略について今さら言う人はいない」という趣旨の発言をしていましたが、韓国の戦争記念館(だったかな?)に行ったら、秀吉よりもはるか昔、倭寇の時代から何回も日本に侵略されてひどい目にあってきたと教えられていたように思います。
人を殺されたら、その傷はいつまでも残る、そういうものだと思います。
(人を殺したって時間が経てばチャラ、なんて考えの医者にはなりたくありません。
皆さんも、そんな考えの医者にはかかりたくないでしょう。)
 僕の立場としては、前の世代が起こした戦争について、今の世代の人間が直接の賠償責任を持ったりするのは、本人の自由意志でしたことではない以上、適切ではないと思います。
しかし、相手の心の傷に配慮する道義的責任、そしてそうした過ちが繰り返されないように努力する道義的責任はあるように思います。
この「道義的責任」は、それを果たす中にのみ、双方の理解と共生と幸福が築けるから生じる、と考えます。
 この立場なら、講義に出てきた「親が罪を犯した場合」「オバマ大統領は原爆投下について謝罪すべきか」「日本は真珠湾攻撃について謝罪すべきか」などの例にも適応できるように思いますし、非常に現実的なのではないかと思います。
少し理想論的過ぎるといわれてしまうかもしれませんが・・・。
 ちなみに、「正義」の定義はまだ僕自身の中でできていません。
ただ、人の命を脅かすものが「悪」だとは思います。
それが何故かといわれたら、とか考え出すととまりません。

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